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水道屋として

本当に求められる環境意識

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エコへの疑問に水道屋が挑む

エコロジーという言葉が浸透し、その意味をあらためて説明する必要がなくなってから、10年ほど経つだろうか。

私は世間一般でいう「エコ」というものに対して、つねに疑問をいだいている。「エコ」という冠ばかりに意味がもたされ、守るべき環境とはそもそも何なのか、それは本当に守るべきものなのか、もっと言えば「守る」という意識そのものが本当に正しいのか、ということがすっかり置き去りにされているからだ。

料理、洗濯、風呂、トイレ。生活の中で私たちはたくさんの水を使う。その水がどこからきて、どこへ流れていくのか。読者は考えたことがあるだろうか。今日はまず「水が流れていく先」について考えることにしたい。

使った水の流れて行く先

いきなり答えを言おう。それは「川や海」だ。

私たちが生活で汚した水は、途中の道筋は違えど、すべて例外なく河川に流れる。そしてその一部は下流において取水され、浄水、配水、給水、排水という過程をへたのち、さらに下流の川に戻る。これを繰り返しながら川を下り、やがて海に入る。われわれが家庭から流し出したあらゆる水は、そうして海水になるのだ。

排水が「川や海」まで流れる路は、ほかならぬわれわれ人間がつくった。動物たちがつくったのでも、風が運んだのでも、断じてない。だとすれば、正確には「排水は河川に流れる」のではなく「排水は河川に流される」と言うべきであろう。

処理される水、処理されない水

人間がつくった「川や海へ戻す路」を流されている排水は、自らの意思とは無関係に、大きく2つに分けられる。

1) 処理
2) 非処理

つまり、手つかずで海に入る場合とそうでない場合がある、というわけだ。排水に手を加える。これが何を意味するのかを理解するには、排水や汚水とは何かについて考える必要がある。

水は使うとなくなる?

そもそも「水が汚れる」とは、どういうことだろうか。水、すなわちH2Oは日常生活で利用する範囲では、その組成を変化させることは"ほぼ"ない。あったとしても、その可能性は極めて低く、この話題においては無視できるほどでしかない。

われわれが水を使うということは、水道水に何らか物質を混ぜる、ということに他ならない。何らかの物質とは、タンパク質や脂質などの有機物のことだ。水は「使う」と言っても、消費され「なくなる」わけでもなく、別のものに変化するのでもない。容易に取り除けない何かが混ざり、もとの状態、すなわち飲める状態では「なくなる」のだ。

言葉にだまされてはいけない

われわれが水に混ぜてしまう何かのことを、時に人は不純物と呼ぶ。不純とは「何も混ざっていない純粋なH2Oに対して」という意味である。これは混ざり物そのものが純粋でない、ということと同義ではない。ここに誤解のタネがある。

あるいは生活排水のことを「汚水(おすい)」と呼ぶことがある。汚いモノが混ざった水、つまりは汚い水、という意味だろう。キレイとかキタナイというのは個人の主観だ。「汚水」という言葉もまた、生活排水の本質を表現できてはいない。

生活排水とは、水に異物が混ざったものである。その意味においては水道水と同じだ。雨水とも同じだ。地球上にあるすべての水には、多かれ少なかれ異物が混ざっている。

われわれは生活排水を「汚れた」「キタナイ」と形容する。大多数の人が主観でそう感じるからだ。その主観は社会的な共感を得られやすい。けれどもその形容のおかげで、生活排水とは何かという客観的な事実はかすむ。見えにくくなる。主観に左右される言葉で安易に呼称を形容すべきではない、と強く思う。

生活排水の本質

話を「処理」「非処理」の件に戻そう。

われわれが使った水は海へ行く。道は違っても、最後は必ず海へ行く。非処理、すなわち手つかずで海へ行く生活排水がある。混ざり物がそのまま海へ行く、というわけだ。

だから排水口から無機物を流してはいけない。当然のことだ。大きさがある程度のかたまりであれば、そもそも海にたどり着く前にパイプをつまらせる。

ほかにも、海へ入れてはならないものがある。それが過剰な有機成分だ。現在日本の法律は、海に流してもよい水という基準を設けている。一定量の排水中に含まれる有機成分も基準値が定められているものの一つだ。いや、むしろこの有機成分こそ、実は放流水質基準の肝なのだ。この一点に尽きる、と言い切るのはかなり乱暴だが、批判を承知の上で今日の話の目的のために、あえて言い切ってみたい。

肝は有機成分だ。

なぜ過剰な有機成分を海に入れてはならないのか。それは生態系が壊れるからである。「赤潮」と呼ばれる現象がある。読者も例外なく小学校で習ったはずだ。その赤潮の原因とされる「富栄養化」と呼ばれる状態は、この分解されていない過剰な有機成分によって引き起こされる。

キレイ、キタナイの問題ではない、とわざわざ断った理由はここにある。われわれが水を使うという行為。水の中に異物を混ぜるというその行為に問題があるとすれば、それは水をキタナクすることではなく、混ぜる異物が有機物であり、その割合が生態系を乱すほど大きいことなのだ。

処理って、どうしてるの?

「処理」とは、この水道水に混ぜられた過剰な有機成分を生物分解することに他ならない。とすれば「非処理」とは、自ずと過剰な割合で有機成分を含んだ水が海水になることを示す。

ではみなさん、あなたの流す水は処理されていますか。それとも処理されていませんか。そもそその答えをご存知ですか。

処理の方法は、どこで処理されるか、という観点から2つに分けられる。

1) 家庭
2) 地域

具体的には、

1) 家庭:浄化槽
2) 地域:公共下水道

ということだ。浄化槽も公共下水道も、生活排水中の過剰な有機成分を生物分解していることに変わりはない。違いは各家庭で処理をするか、地域の排水処理施設で処理をするかの違いである。

知られざる排水処理の問題点

「ならば問題ないではないか」という声が聞こえてきそうだ。問題は、ある。家庭において生活排水中の過剰な有機成分の処理を担っている浄化槽の処理方法には、また2種類あるのだ。

1) 単独処理
2) 合併処理

話を単純化するために結論だけを申し上げる。

1) 単独処理:し尿だけを処理する
2) 合併処理:し尿を含むすべての生活排水を処理する

お分かりいただけるだろうか。非処理のまま海水になる生活排水とは、合併処理浄化槽もなく公共下水道にも接続していない家庭から出るし尿以外の排水のことである。

そしてもっとも問題なのは、ここまで書いたことを知っている人が悲しいほどに少ないことだ。

自責の念と専門家としての思い

問題の責任の一端が、私をはじめとする水道工事従事者にあると自覚している。圧倒的に説明が足りていない。ご存じないのも当然である。

求められる環境意識とは、社会の共有財産を社会に戻すとき、その戻す責任を担う人にとっては、事実を正確に理解することに向けられる意識であり、その戻す行為に沿って商う者にとっては、事実を正確に伝える続けることに向られる意識なのだと思う。